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子供達の夢が大空いっぱいに羽ばたく凧。長崎市ではハタと呼ばれ、春を告げる年中行事として毎年、ハタ揚げ大会が行われてきた。

長崎のハタは「出島~オランダ間」のインドネシア人が伝えられたといわれ、二本の竹ひごを湯葉というアサヒモでつなぎ、和紙を張って出来ている。


よく揚がるハタ造りのポイントは、竹ひご造り。選び抜かれた竹を割り、少しずつ削って竹ひごを作成する。削っては、ちょっと曲げてみる。左右のバランスやしなり具合を調整していくこの過程は、重要なポイントだ。

縦骨と横骨を十文字に組んで繋ぎ、紙を張り付ける為の糸を張る。次に紙を張るのだが、ここで長崎のハタの一番の特徴が見受けられる。この紙の模様、書いてあるわけではないのだ。

色がつく部分そして、柄になる部分をきれいに切り抜き、張り合わせて出来ている。およそ200種類にも上るハタのデザイン。
ハタ造りの中で切り抜きだけはハタ職人にしかできない技だという。特性の糊で紙を張り終えると、ハタの出来上がり。
昔、出島商館のオランダ人が伝え、長崎に入港する外国船につけられた国旗の模様が使われるようになったという説があるが、明らかではない。
しかし、形からいうと菱形に近い南方系で東南アジア方面から渡来したとも言われている。いずれにしても、16・7世紀には既に長崎の空に舞っていたとも言われ、歴史的にみてもかなり古くから造られていたが、今のハタの姿になったのは、それからさらにしばらくたってからのことという説もある。
また、「ハタ」という言葉の由来も南蛮船などにつけられた国旗いわゆるハタからきているという説もある。

江戸時代、ハタ揚げが盛んに行われ、特に空中で相手の糸を切る凧合戦が原因で喧嘩が絶えず、度々旗揚げ禁止令が出されているほどである。
昭和の初めハタ屋は37人いたとされるが、現在残っているのは小川ハタ店のみである。

ハタ揚げをする場所が次第になくなってきたことや生活に時間的ゆとりがなくなったためと推測されるが、異国情緒豊かな長崎のハタは愛好家が多く、今なお根強い人気がある。形は菱形に近い形で、地紙は筑後生漉きの白百田を使い、模様には土佐生漉きの赤・藍・紺・黒などの染め紙を切り抜いて張り合わせている。図柄は、主に一重縞・二重縞・端午縞などの幾何学模様、国旗、船舶旗などで波千鳥などの動植物が描かれているものなど約120種に及ぶ。

凧糸(よま)にガラスの粉末をつけ、凧上げた時に他の凧とけんかさせ、相手の凧糸を切ることも行われる。長崎では凧のことを”ハタ”と呼ぶ。3~5月の市内の山々では、ハタ揚げに興じる人で賑わう。糸にビードロヨマと呼ぶガラス粉をつけ、相手の糸を切り合うのが特徴だが、赤や青の色鮮やかな凧が青空を舞う姿は、長崎の春の風物詩である。


約400年前平戸藩が松浦水軍として活躍した当時の軍船や外国貿易船が安全航行のため、航海上必要な風の方向、強弱を凧の上部につけた「藤カズラ」の唸り音の強弱で測定するため揚げていたと言われている。

1500年代頃、中国から入ってきた”ようちょう”の名前から”ようちょ”とも呼ばれるようになったとも伝えられている。明治初めから、現在の平戸鬼洋蝶と呼ばれるものが造られている。渡辺綱の鬼退治が題材とされたのは、松浦藩の五代目当主として現在の平戸に赴任していたことと、鬼退治=魔よけや開運の縁起をかついでのことである。

頭部に弓がついており、風があたると独特の唸り音を生ずる。弓の弦はかつて藤カズラを使用した。絵柄は、渡辺綱の羅生門の鬼退治を描いたものと言われる。
五島地方で古くから郷土玩具として親しまれているこの凧は、男の子の初節句にこれを揚げ、強健な成長と立身出世を祈願したと言われる。
”ばらもん”とは、五島の方言”ばらか(活発な、元気がいいという意味)”からきているといわれている。武者が鬼に喰らい込まれた姿で、一説には、鬼に真正面から立ち向かい敵に後姿を見せぬ勇者の姿が表現されていると言われている。

また、五島は隠れキリシタンの島であるが、五島バラモン凧には、絵柄の中にクルス(十字架)の形があるともいわれている。

五島バラモン凧にも独特の唸り音がある。五島方言で荒くれ者の意味。武者のカブトに鬼が相対しながらかみつくという事が、長崎、壱岐の凧と違うところ。黒竹で骨組みし、和紙か布を張り付けて、絵柄と彩色をほどこす。原色使いで出来上がりは、まさに鬼気迫るダイナミックさがある。
壱岐には、全島に分布する石室古墳があり、これらは鬼の岩屋と呼ばれ、鬼の棲家として伝えられている。
大和朝廷が成立する前壱岐が壱岐の鬼凧は、百合若大臣と悪毒王の首を描いている。ユミセン(「ナメラフグ」というフグの皮)などを頭部の竹の弓につけているため独特のうなり音がある。凧の上部は両目を向いたこわい鬼の顔。その下にかぶとをかぶった武者の絵が描かれている。

材料はハチクかクレタケで、紙は唐津の問屋から仕入れてくる手すき和紙。うなりにはフグの腹皮を細い切ってとりつける。
長崎市の東部に位置する中里町。
古賀村(こがむら)と呼ばれていたこの町には、江戸時代から小川家に代々伝わる土人形が存在する。 長崎街道の道すがら、当時としては珍しい洋風の人形は、みやげ物として大変な人気を博していた。
この古賀人形は「かたぼね」と呼ばれる手法で造られる。よく練り上げた良質の粘土を型に入れ、指で押し込みながら形を作る。その粘土の厚みは厚くなっても、薄くなってもいけないという。指の力加減で粘土の厚みを自在に調節していく。前と後ろを合わせて繋ぐと、人形のかたちが出来上がる。
窯の中に入れ、低温で焼いた人形は、まずその命と言われる顔を描いていく。目入れと呼ばれるこの作業。
代々限られた人だけが受け継いでいるという。そして、色付け。原色がいくえにも重なる微妙な彩りは手作業でなければ不可能な技。

古賀人形の魅力は、素朴さの中に漂う長崎情緒。その味わいは、京都の伏見人形・仙台の堤人形とともに日本の三大土人形として多くのファンを魅了いる。約400年の歴史を持つ古賀人形は、この野趣に富んだ素朴な人形で人気が非常に高く、全国各地からの注文に対し、生産が間に合わない状況である。
息長勝問勝競べ(いきながしょうもんしょうくらべ)。

これは佐世保に伝わる独楽まわしの掛け声である。佐世保独楽は東南アジアから中国を経て渡来したといわれ、らっきょうのような独特の姿が特徴の独楽である。

材料となるのは県北地区に多い「まてばしい」の木。この木を仕上げの長さに合わせて切り、回転させながら削ると、みるみるうちに独楽の形が出来上がっていく。これにロクロとノミで細かい部分を仕上げていく工程に移る。
赤。黒。緑。黄。青。
鮮やかな配色が佐世保独楽の特徴。鉄で出来た剣を打ち込んで完成する。
佐世保独楽はぶつけあいながら回して相手の独楽を叩き割る、いさましい喧嘩独楽。しかし、異国情緒豊かな色彩とその優雅な姿は室内インテリア、アクセサリーとしても、広く人気を集めている。

日本の独楽はもともとは九州から東進したものと言われている。かつて数百種の種類があったといわれているこの独楽も今では殆ど姿を消しており、一部の物しか生産されていない状況にある。現存する佐世保独楽は、今作られているらっきょう型の一種で、この形状のものは台湾・インドの系統で南方より中国を経て長崎に渡来したものと言われている。

独楽の生産は、昭和初期に黄金時代を迎えた。その後、戦時中に一時衰退したが、戦後すぐ復活した。しかし、オイルショック以降需要が伸び悩んでいる。原因は、子供達の遊びの変化によるものが大きいと考えられる。
しかし、現在は民芸土産品として購入される場合や、子供の玩具として幼稚園や小学生でまとめて購入される場合が多い。

優美さと異国情緒豊かな色彩で全国的に有名なラッキョウ型こま。 現在は、装飾用独楽をはじめ、タイピンなど新しいものに取り組んでいる。




長崎県「平戸」は、南蛮の歴史もさることながら、松浦藩の城下町である。

室町時代、松浦藩主「源是興」が正式な大名であるとの幕府のお墨付きをもらうために京に上った事があった。
しかし、将軍足利善政公はなかなか面会に応じてくれない。そんなある日、夢の中に赤い牛が現れて願いを叶えてくれるという。この殿様が牛のお告げを守ると、念願叶い、ようやくお墨付きをもらえたという伝説がある。

県北を代表する郷土玩具、願掛け牛は、そんな民話から生まれた物である。この願掛け牛は「鋳込み」という技法で作られていく。かたちを造り、焼き上げたあと、牛の角をつけ、色鮮やかな赤の色づけを行う。そのあと鼻や目を描き、主木の布や金色の紐などで飾りつけを施す。絵付けから飾りにいたるまで、この牛、全てが手造り。ひとつひとつ丁寧に仕上げられているのだ。

開運。そして大願成就を願う、赤い牛。厄除けと家内安全をもたらす黒い牛。どちらも、縁起物・幸福の牛として、広く人々に親しまれている。