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寛永年間(1624年~43年)に中国よりもたらされた菓子のひとつである。

表面が白く、まるで雪を被った菊のように見えることから”甘菊”と呼ばれていたが、材料の仕込みや製造工程を冬季に行い、寒風にさらして乾燥させていたため、”寒菊”と呼ばれるようになったと伝えられている。

現在では、原料となるもち米を砕いて砂糖と混ぜ、寒風にさらしたものを冷凍保存し、四季を通じて製造できるようになり、上品な味覚と芳香が損なわれず一年中味わえるようになった。しかし、手間暇がかかる為、現在では長崎市内の菓子製造業者だた一軒のみで1月に1度製造されているだけである。

昭和30年代、文明堂はこの寒菊の製造方法をそのまま活かして食べやすく小型化した”さざれ菊”を考案した。どちらも爽やかな生姜の風味が豊かな焼菓子である。
江戸時代。
対馬藩が西の長者と全盛を誇ったころ、名物としてできたお菓子が「かすまき」。

カステラ風の皮であんを包んだものだが、対馬の物は円筒形で皮が厚く、壱岐の物は皮が薄く、扁平形になっている。

近年では島原地方でも多く作られており、こちらは大きなサイズで太巻物のような姿になっている。


県指定無形民俗文化財である「チャンココ踊り」は、五島地方で毎年8月13日から15日の間に行われる念仏踊である。

昭和28年、試作・研究を重ねて、きな粉の風味豊かなこのお菓子「チャンココ」が作り上げられた。
名前の由来はこの踊りにちなんで「チャンココ(治安孝行)」と名づけられた。治安孝行には、郷土の発展と親孝行を大切にという思いが込められているという。水飴で練り上げた餅で小豆のあんを包み、この餅を砂糖のシロップにつけ、キナコをたっぷりまぶして完成となる。口当たりの良い柔らかさが五島を代表する銘菓となっている。


有平糖(アルヘイトウ)はポルトガル語のアルフェロア(砂糖菓子)のことで、カステラなどとともに、いわゆる南蛮人の渡来で長崎を中心に伝えられた南蛮菓子の一つ。

砂糖にあめを加えて煮詰め、冷やして棒状とし、または花や果実に模したもの。装飾菓子である。
特に長崎では「細工菓子」と呼ばれ(関東では古くから有平細工と呼んでいる)、くんちの庭見せの飾り物として大きなへぎ板につけられる恵比寿、大黒天の面や、イセエビの形につくる結婚式の海老糖、紅白の千代結びなど、祝いや仏事、茶の湯には欠かせないものになった。
渡辺庫輔氏の一言葉を借れば、美麗なること美術工芸品の群を抜き、長崎の菓子芸術として天下に誇るべきものである。

装飾菓子である有平糖は、いわば鬼子として金平糖(コンペイトウ)を生み出し、これは江戸では駄菓子扱いされる(舶来事物起原事典)ことになる。
結城了悟氏によれば、これもポルトガル伝来で、向こうではハッカの種を入れて香りをつけている。のどに柔らかく、宣教師はのどの薬として作っていたそうだ。

菓子作りに欠かせない砂糖は、貞享二年 (一六八五)に台湾から長崎に舶載された。
何十㌧という大量の白砂糖で、それから初めて砂糖は庶民に手の届く味となり、菓子製造が全国的に始まった。

長崎の細工菓子は、本博多町の泉屋長鶴によって創始されたという。有平細工として伝承されてきた菓子作り技術は、さらに改良が加えられ、ぬくめ細工として発達した。

美しい色と形に苦心があり、用途によりさまざまな物が作られた。長崎県は、この技法が中国から伝えられた最初の地であり、野母崎町の菓子職人松尾玄次氏は、長崎県の無形文化財保持者として技術の伝承に尽くした。
南方の果実「ざぼん」の皮を砂糖に漬けた、「蜜漬物」の一種である。

長崎でざぼんが栽培されるようになったのは、寛政5年(1793年)鹿児島沖で難破した船の乗組員「文旦」が種を持ち込んで以来であるという説と、寛文6年(1666年)ジャワの船主、周九娘が長崎の本草学者「盧草碩(うそうせき)」にその種を伝えて以来であるとも言われる。


しかし、いずれにせよアジア南部が原産のざぼんが長崎で栽培されるようになった。また、江戸時代唐より果物や野菜の蜜漬物の手法が伝来しており、ざぼんも蜜漬物の材料として使用されていたと推測できる。
しかし、本格的に蜜漬けが行われるようになるのは、明治時代の初期白砂糖が輸入されるようになってからである。この頃より商いとしてざぼん漬を製造するようになった。

戦前まで、ざぼん漬けは文旦漬と呼ばれていたが、戦後になって「長崎のザボン売り」などの長崎物歌謡曲の流行によってさぼん漬けと呼ぶようになった。

ざぼん漬けはざぼんの表皮と果肉の間の柔らかい部分を漬け込んで製造される。原料のざぼんの厚皮を適当な大きさに切って水にさらしたあと、煮詰めた砂糖の蜜で、じっくり、じっくりと煮込んでゆく。やがて、べっ甲のようなあめ色の輝きが生まれはじめ、最後に砂糖をまぶして、ざぼん漬けが完成される。
良質のものはべっ甲色で一見堅い感じがするが、内部は意外と柔らかくようかんのような歯ざわりである。


おこしは、平安時代初期に渡来し、”おこし”という唐菓子を改良したものであると伝えられている。
「和妙抄」にも”おこし”は、”蜜をもって米に和し、煎ってつくる”と記してあるように、ほぼ現在のおこしに近いものが昔から作られていた。

この素朴な味は、日本各地で作られているが、各地域毎に特色があり、微妙に差がある。


長崎県のおこしは県央地区の数箇所で製造されるが各地域毎に独自の手法で行われる。

大村市の松原で製造されているおこしは「松原おこし」と呼ばれ、延方7年(1679年)に御厨四郎左衛門が中国の欣済と名乗る禅僧より伝授されたのが始まりと言われている。明治の頃から、松原の地名を取って「松原おこし」と呼ばれていたが、昭和に入った時に勃発した戦争によって6代目が戦死し、途絶えてしまっていたが、昭和35年に従来の手法を復活させて現在にいたっている。

諫早を代表する銘菓とては200年の歴史を誇る「諫早おこし」が有名である。長崎の米処として有名な諫早には老舗と呼ばれる店舗が数軒存在し製造されている。諫早おこしの材料は良質の米に唐あくを入れるのが特徴である。このおこしは固める前に黒砂糖などを混ぜるために味が均一になる所にも特徴がある。

また、慶応3年(1867年)より製造されている早川おこしもある。このおこしは、その昔、病気見舞いに贈った所、このおこしを食べて元気になったといわれ、それ以来「病人起こし」として有名になったといわれている。
17世紀前半に中国・琉球を経て九州に伝わっていったさつま芋の栽培は、慶長10年(1605年)長崎へと伝えられたといわれている。
特に五島地方では、干した甘藷を利用したかんころ餅が古くから作られており、さらに県下各地でも作られるようになった。

五島ではサツマイモを細かく切り、茹で上げた後、冬場の北風でさらしたものを「かんころ」と呼んで親しんできた。このかんころを餅と一緒によく蒸しあげ、あつあつのまま餅つき機で突き上げる。これがかんころ餅である。甘藷を薄く切って茹で上げ、厳寒期の12月~2月の強い季節風を利用して乾燥させたものにもち米をつなぎとして加え、突き上げてできるかんころ餅は、甘さを抑えた素朴な味わいの餅菓子である。

当初は保存食料として作られていたものが、いまでは各地の特産品とて販売されている。五島地方に約20業者が存在し、他には西彼杵郡などにも存在している。やや平たい俵型が一般的であるが、長方形や丸型もあり、なかには餡を入れたものも存在する。