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眉山焼は、島原の領主松平忠房が1669年(寛文9年)御庭窯として開窯依頼、明治27年頃まで続いたというが、これが市内の湊町で焼いたといわれる眉山焼あるいは湊焼(島原焼)である。

この窯を復活させたのが、地元で美術商として30年のキャリアを持つ芝田治氏だった。同氏は、昔の作品を復活させるとともに、昭和58年に新しい製品を開発した。「長崎幕瑠璃」の銘柄で全国的に親しまれてきた「眉山焼」。

昭和に入り復活したが、平成3年6月の雲仙普賢岳噴火時の大火砕流で窯場が焼失し、最近ようやく再興された。





平戸藩の御用釜、三川内焼は朝廷や将軍家への献上品に用いられ、緻密で優雅なおもむきがその特徴である。

三川内焼に伝わる秘伝は菊細工の技。道具は土と一本の竹べら。ただそれだけ。あとは職人の腕ひとつで丹念に花びらの形が作られていく。

一枚、そして、また一枚。土は菊の花びらへと姿を変える。菊細工は皿などを彩り、一味違った風情をかもしだす効果があるという。菊細工だけが三川内焼の秘伝ではない。その秘伝の集大成が透かし彫りという技法。

三川焼独特の手法が生み出す、伝統の逸品である。飾りにつかわれる部品は、全て土で作られた手作り。熟練した職人でも根気のいる、細かい仕事の連続です。 そして、生地に彫りを入れる透かし彫りの技。一彫り、一彫り、刻み込まれていきます。


何ヶ月も掛かって仕上げられる作品。手造りならではの美しさが際立つ。職人の繊細な筆さばきが器に命を吹き込む下絵付け。焼き物独特の、”呉須”という絵の具を用いてあざやかに描きだしていく。
呉須は焼き上げると深い藍色に染まる特性を持つ。三川内焼の代表作と言えるのは唐子絵。  中国は唐の時代、無心に遊ぶ子供達の表情が生き生きと描きだしたこの図柄は、その愛らしい姿が多くの人々に親しまれ、唐子人形も作られた。瀬戸焼のルーツは、三川内焼だと言われる。


代表作は唐子焼である。純白の地肌に一本の松。その根本に1株のボタン。その花にたわむれる蝶。それを捕ろうと無心に遊ぶ唐のこどもが3人、5人、7人。
 唐子の人数によって、7人唐子は献上品、5人唐子は藩公用、または諸大名への贈答用、3人唐子は一般用と厳密に区別された。




江戸時代、大村藩によって釜が開かれて以来、庶民に身近な良質の焼き物作りが続けられきた波佐見焼。  この波佐見焼の秘伝として、白磁に華を添える上絵付がある。
一度焼きあがった器に鮮やかな色絵の具を絵付けるので、上絵付けとも呼ばれる。呉須が織り成す、藍一色とはまた違った、鮮やかな美しさが特徴の作。

筆先を小刻みに振り、絵の具の分量を自在に調整しながら造りあげられる技法は、長年の経験とつちかわれた勘だけが会得できる技法という。職人の思い描く、美しい色合いを引き出すことができるのは、この長年のカンだという。

また、網目焼も秘伝のひとつ。全てが手作業で行われる熟練の技が、細い土の紐を網の目に組み込んでいく。網目をつぶさない秘伝の上薬をかけ、型崩れしないように釜の温度や置き方に気を配る。
ひとつひとつのこまやかな心使いが美しい網目焼をつくりあげていく。

さらなる秘伝として墨はじきがある。呉須の変わりに墨を使い、下絵を描く。そのあと、呉須でダミと呼ばれる色付けを行っていく。そして、窯に入れて焼く。すると、墨で描いた下絵が消えてなくなってしまうが、エアーガンを当てると空気の圧力で墨の部分がはじけ飛んでしまう。
これが墨はじきと言われる名前の由縁です。焼き物ならではの妙技が生み出した、伝統の技である。藍色の下地に浮き上がる白い模様が、独特の味わいをかもし出しています。
白地の生地に、染め付けと呼ばれる藍色の文様との絶妙な調和が特徴。昔は「くらわんか茶碗」や「コンプラ瓶」などの日用雑器が多く作られていた。「くらわんか茶碗」は、大阪の淀川通りの船に「くらわんか」の掛け声で酒や食べ物を売ったときに使ったと言われている。「コンプラ瓶」は、江戸時代に長崎の出島から輸出される醤油や酒を入れた瓶である。400年前から時代に調和したものづくりを続けている。
現川焼の発祥は、今からほぼ330年前の元禄時代にさかのぼる。
 九州は長崎の片田舎(現長崎市現川町)に古陶の雅びな美しさと結びあわせるには余りにもひなびた山あいの谷川沿いに忽然と現れ、そして窯場の火は約50年にして消えたと言われる。

藩の保護を受けることもなく、民窯として営まれていたため、経済的に成り立たなかったとの説もあるが、原料の赤土の枯渇が大きな原因のようである。なお、木原地区では現川焼と同じ元禄時代に刷毛目の焼きものが作られ始め、様々な文様を編み出しながら200年ほども焼かれていたが、白磁隆盛の時代の流れに抗しきれず江戸時代の終えんとともに姿を消すが、昭和に入って十二代臥牛宗雲によって再興された。
中国出土文物展をはじめ、今や世界の話題をさらう陶芸に陶三彩がある。

陶の300年の歴史の中で燐然と燃えて消えた華麗なる陶美は、やがて西方文化とシルクロードで交わり、ペルシャ三彩となった。
わが国へは正倉院三彩として影響し、この三彩陶の発祥は定かではないが、長崎県の長与(当時大村藩)に伝承されたのは約200数年ではないかといわれている。
対馬は韓国の影響などで古くから焼き物との関わりが深い地域である。

対州藩は江戸時代に釜山の在外藩邸内に窯を築き(釜山窯)、将軍家への献上品などを焼いていたが、享保2年にこれを閉窯、享保11年再び現在の厳原地区に藩窯を築いた。

ここは、明治の頃までで一度途絶えたが、昭和40年代後半に再興され現在に至っている。
 肌に鹿の子のような赤い斑点が出るのが特徴で、主に茶道具などに用いられている。
雲仙焼の歴史は大正7年頃、小浜に窯を持っていた本多親基(号 牧仙)が雲仙小地獄に築窯したことに始まり、その後、大正15年頃東京より雲仙を訪れた蔭山某氏(号 百鑒済)が小地獄の窯を引き継いだ形で作陶し、新たに窯を新湯に開いた。

雲仙焼を名実共に受け継いだ石川兵治(号 靖峰)は昭和35年に雲仙古湯に築窯し、焼〆などの新しい技法も取り入れて、近代の雲仙焼の創始となった。
現在は石川照 石川ハミが父、靖峰の後を継承して、昭和52年、雲仙中腹に登り窯を築窯。平成3年には今回噴出した火山灰だけを使って油滴天目の焼成を成功させ、雲仙古湯で作陶し今日に至っている。

雲仙焼の最大の特徴は火山灰を100%使った油滴天目である。その他、地元の土・唐津の土を使った焼締物を焼いている。