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今から130年前の江戸時代。
対馬藩大砲方の職にあった満山俊三は伸びない、そして折れない鋼鉄の釣り針を考案した。そしてその技術は代々満山家に受け継がれ、強さではほかに類を見ない日本で唯一の、手造りの釣針を作り続けている。

釣針の材料には鋼線つまり、ピアノ線を使用する。
まず、鋼線を扱いやすくするために蒸し焼きにする。鋼線は釣針の寸法に合せて切断し、フイゴで熱して針山のたたき出しを行う。針山ができると、さらに一晩蒸し焼きにし、やすりで針先を作っていく。
池と呼ばれる針先のかえしの部分は、釣る魚の種類に合せないとせっかく釣り上げた魚を傷めてしまうため、手造りならではの細かさが決め手となるのだ。
注文通り、一本一本形を合わせ、針を曲げていく。手先の感覚だけで形を決める、伝統の職人技が光る瞬間。いよいよ焼き入れに入る。

焼ムラが出ないよう温度の具合を色で見ながら、フイゴで加熱する。頃合いを見極めると椿油に通し、すばやく水で冷やします。油の炎の熱と冷たい水のぶつかり合いが針の強さを産みだすのだ。この後再び暖めて焼き戻し。油を落として調整すると満山釣針の完成となる。

釣師にとって針は命。
秘伝の技から生まれる手造りの釣針は全国の釣師たちの憧れの的となっている。
 江戸時代から、対馬の満山家に伝え継がれた釣針は、「伸びない・折れない・手作りの釣針」として評判高く、現在も通の釣り人に愛用されている。
海外より伝えられた染色の技法・長崎染は400年を経てなお、この地に息づいている。

まず、白い布に抜き方を置き、へらで特殊なのりを生地に乗せていく。そして、型枠を外すと、図柄の部分だけのりが残る。

長崎染は、かつて南蛮人によって伝えられた「更紗染め」。
唐から伝わった「花手拭(はなてぬぐい)」。シャム伝来の「花茣蓙(はなござ)」という、染の技法がそのルーツとなっているという。
釜で温められた染料の中にのりで図柄を描いた布をゆっくりと漬ける。そして、ムラにならないよう染料によくさらした後、釜から揚げてたっぷりの水の中に入れ、擦ってのりを落とす。すると、のりのついていた部分は染まることなく、図柄が白地のままでくっきりと現れてくる。そのあと、よく水にさらし、天日に乾して仕上げとなるのだ。

この長崎染は、当時の長崎奉行から将軍家の献上品として用いられており、色合の良さと染色が容易に剥落しないというそれぞれの良さを持ち珍重されてきた。

この伝統の染め方を新しい時代感覚の中で再現しようと昭和30年長崎染の会が発足した。江戸時代、長崎の輸入された南蛮人、紅毛人伝来の更紗模様に長崎の文化や風物誌を染め出したものが多く、製品としては、のれん、座布団カバー、テーブルセンター、コースターなど、多岐に渡っている。




ガラスの起源はきわめて古く、考古学者によって発掘された世界最古のガラスは、古代エジプト王朝時代のもので推定年代はB.C.7000~3300年である。

日本で使用されたガラスは、約2000年前の弥生式文化の時代で、緑色ガラスの璧(平らな玉)とコバルト色の玉が発見された。
3~6世紀(古墳時代)に日本でもガラス製造が行われ、玉類が発見されている。

8世紀奈良時代にはガラスの種類と用途が拡大され、貴重な装飾品となった。9~10世紀平安時代に入り、承平の乱以降ガラス製造は日本では行われなくなった。
しかし、天文20年(1551年)宣教師フランシスコ・ザビエルが山口の大内義隆にガラスの鏡や望遠鏡を贈ったと言われているが、近世ヨーロッパのガラスが日本に入ったのはこの時である。

一般的には、徳川幕府の鎖国政策により、ポルトガル船やオランダ船によって盛んにもたらされた舶来のガラス器に影響され長崎ガラスが作られるようになったと伝えられているが、材質(長崎ガラスは鉛ガラス。ヨーロッパはソーダガラス)の違いから、中国ガラス(鉛ガラス)に学んだという説もある。


また、長崎の吹きガラス(びーどろ)がいつ頃始まったかについては諸説があり不明であるが、延宝4年(1676年)長崎奉行所が記録した「末次平蔵御所家材道具御払帳」(長崎の豪商末次平蔵の孫平蔵茂朝の使用人が密貿易をしており、末次家の財産が没収された時の財産目録)のなかに“日本物びいどろ釣花入一つ”とあり、少なくとも1676年以前には、長崎でガラスが作られていたものと推測できる。

また、この頃から長崎で作られたガラスの手法は吹き技法であったが、わが国において、この手法が行われるようになったとこは画期的なことである。この手法が伝わったことにより長崎で盛んに製造されるようになったガラスの製造技術は次第に京都・大阪・江戸へと伝わっていった。


年代的にははっきりしないが、明和7年(1770年)に刊行された「職人部類」によるとその当時江戸でガラスが作られていたとある。
幕末になると鹿児島をはじめとして、山口、福岡、佐賀などでガラスが作られるようになった。なかでも、薩摩藩でおいては弘化4年(1847年)藩主島津斉輿が江戸のびいどろ職人四本亀次郎を招き、医薬用のガラス瓶を作らせた。
さらに次の島津斎彬は「玻精工全書」等を参考に色ガラスの試作研究をし、赤色ガラスの製造に成功、安政2年(1855年)、ガラス製造所を集成館に移し、ガラスの生産に努めた。これが有名な“薩摩切子”である。

しかし、安政5年(1858年)斎彬の突然の死によってわずか20年余りでこの切子も途絶えてしまった。18世紀には、長崎土産として全国的にも知られるようになった長崎ガラスもいつしか途絶えていき、そのままガラス製造が企業化し続けているのは、東京と大阪である。
いったん途絶えた長崎ガラスも約10年ほど前から再び長崎でガラスを復興させよう、と東京や大阪で技術を習得した工芸家たちがガラス製造をはじめた。







かつて長崎で製造されていたガラスは、宙吹きと型吹きが中心であったが、他にはガラス棒やガラス管などを溶かしながら盆栽などを作っていくものである。宙吹きガラスとしては“長崎ちろり(酒器)”が有名であるが、他に瓶・鉢・碗・蓋物・皿などがある。

また、型吹きとしては角形や菊花形や草花文様などがある。藍・緑・黄・紫などの色ガラスを使用したものや玉と呼ばれる乳白色のガラスがあり、さらに金彩や漆絵付を施すなど長崎ガラスは多彩で美しいものが多かった。
吹きガラス~いわゆる“びーどろ”は長崎が今なお全国的にも知られているが、“ギヤマン”と言われるカットガラスとしては、江戸切子や薩摩切子が有名である。

ギヤマンという言葉は、もともとダイヤモンドを意味するオランダ語に由来しているが、ガラスをカットする道具にこのダイヤモンドの粉が使用されているため、カットガラスのことを指すようになった。

 江戸切子は、薩摩切子に比べ歴史的に古く江戸時代末期に始められたと言われているが、当時は無色で断面がV字状になるようカットされており、そのカットされた溝の線が斜めや縦横に交差し、光を屈折させるように出来ている。その後被せガラス(無色のガラスに色ガラスを被せたものなど)を使用するようになった。

また、江戸切子は、麻の葉・くもの巣・籠目・魚子・菊・菊つなぎなど今なお伝統の文様」を受け継いで製作している。一方、江戸切子の職人が技術指導したと言われる薩摩切子は、一部無色の切子が残っているが、殆どが色被せガラスを使用しており、深く格子状にカットしてある。そのカットした深さに応じて濃い色の部分、ぼかしの部分、透明の部分と色が微妙に違っており、独特の技法である。

また、カット面の角度が大きいため手触りが柔らかい。長崎で現在販売されているガラスの多くは他県産のガラスであり、県内で製造されているガラスは殆どが個人企業のガラス工芸家の手によって一つ、一つ手作りで製作されているため大変高価なものが多い。

作品は、それぞれ工芸家により特色があり、昔ながらの長崎ガラスを復興させたものや新しく独自の手法で開発したものもある。
約700年前の文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)において来寇した元軍と激戦を展開した古戦場である鷹島町には、戦死した人々の遺骨がたくさん埋もれていた。
約400年前の永禄年間(1560年)にこの遺骨を祀るため、北松浦郡鷹島町阿翁地区に産出する良質の玄武岩を加工して墓石を立てたのが始まりと言われている。

慶長14年(1609年)、福岡の筥崎八幡宮の大鳥居(国指定重要文化財)が阿翁石で建設されたことにより、平戸、唐津各藩の「御用採石場」となり、栄えてきた。
平戸城や平戸市常灯鼻の石垣など数百年の風波に耐え、今なお昔の姿を残している阿翁石は、粘着力に富み繊細な加工に適し、磨滅の度が少ないことで知られている。

昭和31年に阿翁石工協同組合が設立されたが、内部事情によりやむなく5、6年後に解散した。その後、昭和44年に結成した鷹島石工業協同組合が、現在に至るまで伝統の技術を守りながら新しい商品の開発にも努めている。

地元に産出される阿翁石は、砕石に時間がかかり、コスト的にも引き合わなくなってきたため、25年程前から近接の唐津石を使用するようになり、10年程前からは他県産や海外からの輸出品も使用するようになった。墓石のなかでも手加工による複雑なものが多く、レンゲ猫足は他産地の追随を許さない。手加工による複雑な細工ものを得意とする。住宅・庭園などに用いる玄関支柱や石灯ろうなどの新しい製品も製造している。

製品としては、石塔、石碑が中心であるが、最近では時代にマッチした玄関支柱や石灯篭などの新しい商品にも取り組んでいる。石工品の産地は、北海道から九州に至るまで各地に分布しており、全国の有名な石材産地としては浮金石、千石青みかげ、川内みかげ(福島県)、稲田石、真壁石(茨城県)、塩山石(山梨県)、岡崎みかげ(愛知県)、蛭川石(岐阜県)、北木石、万成石(岡山県)、青木石、庵治石(香川県)、黒髪みかげ(山口県)などで、九州では内垣石、唐原石(福岡県)、唐津石(佐賀県)などがある。
硯の歴史は、文字の発達を抜きにして語ることは出来ない。

若田硯は、朝鮮文化を中心にした中国文化と関係があるといえる。その硯と言えば、中国硯が有名で、特に日本の硯もその質を評価する時に必ず引き合いに出すほどの名硯”端溪石”や”羅紋石”があるが、ここでは日本の硯を中心に若田石硯のことについて触れていく。

日本の硯の発展過程は、「日本の硯」(名倉鳳山著 日貿出版社)を参考にまとめてみると次のようになる。
日本では、室町の終わり頃になって作硯の技が現れたが、それまで硯を作るのではなく、硯の形状をした自然石などをもって硯としていたようで、これらの石材は現在では硯として完全に不向きなものなどでもあった。
若田石硯は、平安時代、紫式部が「源氏物語」を執筆した折、使用したと伝えられているため、その頃には既に、京の貴族の間で愛用されていたようであり、かなり古くから作られていたと考えられるが、商品として製作されるようになったのは、江戸時代初期からである。

現在(平成4年)では4企業、5人の従業員によって製造されている。下県郡厳原町大字下原の若田川~対馬の奥深い山の中を流れるこの川に沿い、若田硯の原石が採れる。石の色は淡青灰黒で粘土が幾層も固まってできた頁岩(ケツ岩)である。
若田石硯は、硯の命とも言われる鋒鋩(鉱物質の微粒子で、おろしがねの目のような役割を果たし、墨の摺具合を大きく左右するもの)が細かすぎず、荒すぎず、程よいバランスを保っていると言われている。

また、石質が温潤であるため、留墨や發墨性に優れている。このことは、江戸初期の大儒者”林 羅山(1583~1657)”の「霊寿硯記」にも次のように記されているところからも伺える。

”端溪の秀、羅紋の美”(端溪、羅紋ともに中国で産出される石で硯を作るのには最高品。墨のおりがよく、魚脳凍。蕉葉白・石眼などといわれる美しい文様があり、これら硯の質のよさと美しさを兼ね備えている)。


まさしく、硯の最高品といわれるこれらの硯に優るとも劣らないという高い評価の表れである。硯としての質の高さのためか、彫刻などはあまり凝っておらず、自然の風合いを重視し、表面に漆をかけることによって石のもつ面(紋)をそのまま生かした製品が多い。

一般的には、楕円形のいわゆる小判型のものや又は長方形の角を丸くしたものが多く見られるが、蓋付きの硯などがある。対馬厳原町の若田地区で採取される”頁岩”は美しい石紋を持ち、国内でも有数の良質の原材料である。原石が微妙な石質を持っているので、主要工程では極力機械化を避け、手工芸的な突彫りが主体で、400年間これが若田硯生産の特徴となっている。地元では観光土産品として売られているほか、全国の有名書家、知名士からの注文も多い。